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人生で今この時が一番若いから

ほたる
公開日:
約16分

どうも、ほたるです。

「もう遅いかもしれない」と感じることがあります。

同世代や、自分より年下の人が活躍しているのを見たときに、ふとそう思うんです。

自分の人生に直接的に影響がないのに、頭の片隅にその感覚が残っている感じというか。

その感覚について、よく考えてみると「遅い」というのは年齢そのものの話ではないような気がしてきました。

今回は、その「遅さというか焦り?の正体」を整理して、そこから見えてきた小さな方法について書いてみます。

問題提起
「もう遅い」と感じる
  • 同世代や年下の活躍を見て、ふと思う
  • 年を重ねると、筋に沿って動くことが増える
  • 選択肢が狭まり、難しくなっている
結論
今が一番若い。五ミリずつ越境する
  • 遅さの正体は選択肢の収束と受動性
  • 手遅れではなく、今が一番若い
  • 今日の自分より五ミリ外へ出る
  • 複数の山をゆっくり育てる

「もう遅い」と感じるのは、なぜか

遅さの正体は、恐らく絶対的な年齢によるものではありません。

選択肢が狭まっているという感覚です。

年を重ねると、どうしても「枠から枠へ」「筋に沿う」ように動くことが増えます。

これは自分だけではなくて、多くの人がそうなのではないでしょうか。

10代や20代前半と比べれば、確かに選択肢は収束しているはずなので。

ただ、これは「できない」わけではなくて、難しくなっているだけなはずなんですよね。

その難しくなっているだけのハードルが上がるから「もう遅い」と感じやすいのだと思います。

「もう遅い」の見え方 実際のところ
もう遅い 選択肢が狭まっただけ
もうできない 難しくなっただけ
年齢のせい 受動性と痛みの回避

まず、ここまでが「遅さというか焦り?の正体」というのが仮説です。

あとは、これにどう意味づけして、どう行動を変えていくのか?が大事なのかなと思います。

自分の心が望むままにあらゆることに挑戦するのか。

吟味した一部について、挑戦していくのか。

あえて、時や状況に身を任せて、流れるように生きていくのか。

いろいろ選択肢はあるはずですが、自分が選択したことと、決断・行動は合致していないと不幸を感じやすくなるのかなと思います。

もう一つ、これは人間としての小ささの話をしたいです。

私の感覚として、自分が経験したことより、経験していないことのほうが圧倒的に多いという事実があります。

例えば、日本に生まれ育ち、世界的に見れば、恵まれた状態でそれなりに豊かな生活をしていること。

これは非常にありがたいのですが、その一方で、何かを失っている感覚があります。

また私は、外向的で破天荒気味な人と比べると、人生の浮き沈みも少ないと自負しています。

それもまた自分の性質に沿ったものですが、自分と異なる人生を選択した人が得る経験値は羨ましいなと思うときがあります。

特に、仕事以外で誰かと協調して何かを成り立たせるという経験を、自分は多く経験できていません。

ここは未熟なままだなと正直思いますね。

それっぽく別の経験や知識を変容することで、取り繕っていますが、肌感が分かっていないような、そんな感じです。

「選ばされている」という感覚

ここからが、今回いちばん考えたところです。

物事は自分で選んでいるようで、実は選ばされているんじゃないか、という感覚があるよね、ということです。

世の中には、こちらを誘導するようなものが溢れています。

大企業やマーケティングの仕掛け、生活に直結する社会的な要請。

恣意的でないもののほうが少ないんじゃないかと思うくらいです。これは外部からの作用ですね。

もう一つは、自分の中にあるものです。

惰性で動いていること、欲に流されること。

あと、どんな痛みも避けたいという気持ち。

失敗には痛みがつきものです。でも失敗は成長でもある。

なんなら痛みを少し受けたところで、今まで培ったものを活用すれば、そう悪いことにはならない。

これも分かっている。

なのにも関わらず、ほんの少しの痛みも避けて、規定路線から離れたくない。

今やっている生活から離れたくない。その感情が、選択の裏側にあるんだと思います。

いわゆる、心理的ホメオスタシスというものに該当するのでしょう。

表の顔 裏の顔
自分で選んでいる 選ばされている
安定を選んでいる 痛みを避けている
合理的な判断 惰性と欲

大事なのは、これは個体の弱さではないということです。

自分を守る、合理的な防衛の一つです。

責める必要はありません。

ただ、何が作用してこの状況にあるのかを自覚しておくことには意味があると思っています。

それでも、手遅れではない

ここまで書くと後ろ向きな話に聞こえますが、結論は逆です。

遅いというのは事実で、それを邪魔しているのは、自分が「こうしたい」「こうするべき」と抱いた感情や考えなのかもしれません。

でも、手遅れではありません。

これから仕事以外で誰かと協調して何かを成り立たせるのだって、意図的に作れます。

今と違う行動をすれば、変われる可能性は絶対にある。

例えば、ボランティア団体に連絡するとか、お金を払ってでもやる方法はあります。

話したくないならWEBで完結するものを選えばいいんです。

つまり手段はあるので、完全に手遅れということではないんです。

結局のところ、他人がどうこうではなく、自分がやりたいかどうか、そして実際にやるかなんだと思います。

「人生で今この時が一番若い」という言葉があります。

これは慰めではなく、事実です。

今日が、残りの人生でいちばん若い日からどう行動していくか?なんですよね。

「五ミリの越境」という方法

ここからは、AIとの壁打ちをしていて、たまたま生まれた言葉の話をします。

それは「五ミリの越境」という言葉です。

いかにもAIっぽい言い回しですね。

これはいきなり大きく変わる必要はないし、命も名誉も家族も賭ける必要もないけど、今日の自分より五ミリ外へ出てみて。

というものです。要はスモールステップ、タイニーステップ、ベイビーステップをしようぜという意味のようです。

  • 知らない料理を頼む
  • 知らない道を歩く
  • 下手なまま何か作る
  • 本当は言いたい一句を、丁寧に言う

面白さは、安全な檻の外に五ミリずつ積もっていく、という意味合いです。

なぜ「五ミリ」なのかというと、痛みを最小化できるからだそうです。

小さすぎて、失敗しても傷が浅くて、ゆえに毎日続けられるという意味が込められているそうです。

スモールステップと少し違うのは、具体的な数字が入ることで受け手のイメージがしやすいところですかね。

「あっ、そんな小さいことでOKなんだ」と思いやすくなっていると思います。

今日の自分 → 五ミリ外へ → また五ミリ → 面白さが積もる

近年、私はこの考えのもと、小さな挑戦をいろいろしています。

確かに単調で流されやすい生活の中に、これまでとは違う刺激と楽しみが生まれて、いろんなタイプの楽しいが積もっている感じがしますね。

なかなか踏み出せない人は、企画化すると良いと思います。

これは今後記事化して深堀りしようかなと思います。多分。

人生の山をどう捉えるか

人生はよく山にたとえられます。この山をどうするかで、選択肢はいくつかあります。

  • 頂上を更新する(今の山でさらに高みを目指す)
  • より高い山へ移る(別の領域に挑む)
  • なだらかな山にする(安定と平穏を整える)

私が選んだのは、このどれか一つではなくて、なだらかな山にしつつ、他の山も自分のエリアにするという方向でした。

つまり、今の生活を壊さずに、別の峰を同時に育てていくようなイメージです。

AIや発信など、別の形の創造がそれにあたります。

「頂上を更新する」でも「山を移る」でもない、第三の道です。山は一つじゃなくてもいいんじゃないか、という発想ですね。

人生の山の選択肢
高みを目指す 既存の領域
頂上を更新する
今の山でさらに高みへ
より高い山へ移る
別の領域に挑む
なだらかな山にする
安定と平穏を整える
他の山も自分のエリアに
今を壊さず別の峰を育てる
新しい領域 平穏を整える

過程と結果は別物

最後にもう一つ。

結果、つまり成果や評価やお金だけを追いかけると、過程が苦しくなります。

ゴールに届かないと全部が無駄に感じられてしまうのも人間の性だと思います。

でも、過程と結果は別物で、それぞれに価値があります。

結果だけではなく、過程そのものをもっと広く深く味わえたら、人生はもっと豊かになる気がします。

五ミリの越境は、結果を問いません。

小さな一歩を踏み出すという、過程を楽しむ行為です。

結果がどうであれ、その五ミリは確かに積もっています。

キーインサイト

過程と結果は別物で、それぞれに価値がある。結果がどうであれ、踏み出した五ミリは確かに積もっている。

まとめ

「遅い」と感じる正体は、選択肢の収束と、痛みを避ける受動性なのかも?という話でした。

でも手遅れではありません。事実、今が一番若くて、いきなり大きく変わる必要もありません。

今日の自分より五ミリ外へ出る。

それを積み重ねながら、複数の山をゆっくり育てていく。

過程と結果は別物で、過程のほうも味わっていきましょう。

この機会に、一度、あなたにとっての「五ミリ」は何かを、考えてみてはいかがでしょうか。

まあ、そんな感じで、遅さを感じている自分を含めて、ここから変わっていけるといいなぁという話でした。